所在地:関ケ原町大字関ケ原2236
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された戦死者の処理を竹中重門に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2か所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
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(専用ゴーグルは今後、関ケ原古戦場でのイベントやキャンペーンのノベルティとして配布予定です)
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所在地:関ケ原町大字関ケ原2236
戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された戦死者の処理を竹中重門に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2か所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
所在地:関ケ原町大字関ケ原2491-101
藤堂隊・京極隊は、戦いが始まると大谷吉継が指揮する諸隊と刀を交えます。小早川秀秋が寝返った際、藤堂から調略を受けていた脇坂安治らも寝返り、東軍を勝利へと導きました。
所在地:関ケ原町大字山中30-1
小早川秀秋の不穏な動きを警戒した大谷吉継は、東山道(中山道)を見下ろし、松尾山を正面に望む山中に布陣。病のため輿に乗って部隊を指揮しますが、小早川秀秋や脇坂安治らに三方から攻められ、隊は壊滅しました。
所在地:関ケ原町大字藤下678-2
最期を悟った大谷吉継は自身の首を隠すように家臣・湯浅五助に命じ、自刃。首を隠した直後、藤堂高虎の甥に見つかった五助は、自らの首と引換に吉継の首の秘匿を懇願したといいます。吉継の墓は藤堂家により建立されたといわれています。
所在地:関ケ原町大字藤下445-4
垂井城主(垂井町)である平塚為広は、盟友である大谷吉継の配下として参戦。吉継の代わりに前線の指揮を託されました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原4146-1
西軍の副大将を担った宇喜多秀家は、関ケ原進軍時に殿(しんがり)を務め、夜半の行軍中に東軍の先鋒・福島隊に追いつかれ、小競り合いになったといわれます。本戦では、西軍最大の兵力約17,000を擁して戦いました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原4008
関ケ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣した石田三成。麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に、西軍は次々に敗走しました。三成も伊吹山方面へ逃れました。