所在地:関ケ原町大字関ケ原908-3
関ケ原合戦当日は、現在のJR関ヶ原駅付近に布陣しました。東軍の先鋒は、福島正則でしたが、徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた井伊直政は、松平忠吉とともに抜け駆けし、宇喜多隊に発砲し、合戦の火ぶたが切られました。
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(専用ゴーグルは今後、関ケ原古戦場でのイベントやキャンペーンのノベルティとして配布予定です)
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所在地:関ケ原町大字関ケ原908-3
関ケ原合戦当日は、現在のJR関ヶ原駅付近に布陣しました。東軍の先鋒は、福島正則でしたが、徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた井伊直政は、松平忠吉とともに抜け駆けし、宇喜多隊に発砲し、合戦の火ぶたが切られました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原1202
小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れしたころ、石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊で、この地は埋め尽くされたといわれています。天下分け目の戦いの勝敗は、わずか半日程度で決しました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原1827番地の1
小さな池で島津隊が布陣した際に軍用として使用しました。古来より水が枯れたことはないといわれています。
所在地:関ケ原町大字関ケ原1869-3
甥の島津豊久らと約1,500の兵を率いて陣を構えます。合戦当日の午前中は防御に徹し、石田三成からの援軍要請も拒否。西軍が総崩れすると東軍の中央を敵中突破し薩摩へ帰還しました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原959-2
徳川家康は午前11時ごろ、戦況が把握できないため、笹尾山の三成の陣の正面であるこの陣地に、本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したと言われています。合戦後は、ここで首実検が行われました(床几場)。
所在地:関ケ原町大字関ケ原3441-1
徳川四天王の1人に名を連ねる本多忠勝。合戦当日の午後には、松平・井伊隊とともに島津義弘を追撃しました。
所在地:大垣市上石津町牧田烏頭坂
島津義弘を逃がすため、敵中突破で先鋒を務めていた島津豊久が烏頭坂辺りで殿(しんがり)となり、追撃する東軍の松平忠吉、井伊直政らと奮戦し、乱戦の中で討死したとも言われています。