ワーテルロー古戦場 - 岐阜関ケ原古戦場記念館 ワーテルロー古戦場 - 岐阜関ケ原古戦場記念館

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ワーテルローの戦い(概略)

フランス革命の混乱を経てフランス皇帝となったナポレオンはヨーロッパ全土を手中に収めるほどの権勢を誇った。しかし、スペイン遠征やロシア遠征による敗北により諸外国の反撃を受け、退位を迫られたナポレオンはエルバ島に流された。しかし復活した国王に不満を持つフランス国民はナポレオンを待望し、わずかな手勢とともにエルバ島を脱出したナポレオンは1815年3月に復位した。これに反発するヨーロッパ各国との戦いを強いられたナポレオンは敵軍の各個撃破を目指してベルギーに侵攻、プロイセン軍との戦いでは一定の勝利を収めたが、その勝利は不徹底でありプロイセン軍の退却を許してしまった。そこでナポレオンは追撃部隊を分派するとともに、スペイン戦線以来の仇敵であるウェリントン将軍が率いるイギリス=オランダ同盟軍との決戦を目指し、ワーテルローに布陣した。

1815年6月18日未明、前日からの雨が止んだワーテルローの地面は泥で覆われた。イギリス=オランダ同盟軍はウェリントンの作戦に従って配置され、点在する農場は城塞としてフランス軍の攻勢を受け止める役割が期待された。一方、ナポレオンは砲車の移動のため地面のぬかるみが乾くまでの間攻撃を延期した。この間、敗走したと思われていたプロイセン軍は、ウェリントンを助けるため強行軍でワーテルローに向かっていた。正午前、ナポレオンは陽動攻撃のため、同盟軍左翼のウーグモン城館への攻撃を開始した。しかし、同盟軍により頑強に補強されたウーグモンは守備兵の数倍に達するフランス軍を釘付けとし、その攻撃に耐え抜いた。正午を過ぎたころ、ナポレオンは遠方にプロイセン軍の姿を発見した。プロイセン軍の到来までにウェリントンとの戦闘を決着させることを迫られたナポレオンは敵戦線中央から左翼への総攻撃を決意した。

13時半に16000の歩兵により開始された攻撃は、防御に徹した同盟軍の反撃により1時間ほどでとん挫したが、反撃に出たスコットランド騎兵がフランス軍に殲滅されるなど、戦いは予断を許さなかった。全体として戦闘が膠着する中、ナポレオンの腹心であるネイ将軍は手勢の騎兵による突発的な突撃を開始した。これに呼応する形でフランス軍騎兵の大部分、1万騎が同盟軍に対し突撃したが、歩兵の援護を伴わないこの攻撃はウェリントンが巧妙に組ませた対騎兵用の方陣により阻まれ、大損害を被った。

史上に名高いネイの騎兵突撃が繰り返されるころ、フランス戦線の最右翼ではプロイセン軍の尖峰がプランスノア村に到達し、これを阻止すべくナポレオンが援軍として送り込んだ部隊が必死に戦線を支えた。18時、不利な二正面での戦いを強いられつつあるナポレオンは、一刻も早くウェリントンとの戦いに決着をつけるため、戦線中央部のたラ・エイ・サント農場への攻撃をネイに命じた。激戦の結果、ラ・エイ・サントはフランス軍が奪取し、これを絶好の機会と見たナポレオンは切り札である皇帝近衛部隊のほとんどを投入し、同盟軍戦線中央部への総攻撃を開始した。

19時に開始されたフランス軍の総攻撃は、丘の反対側で伏せていた同盟軍兵士による一斉射撃による激しい反撃にあい、苦戦を強いられた。ちょうどこのころプロイセン軍の本隊が戦線に到来し、反撃の好機と見たウェリントンは全軍の突撃を命じた。一方フランス軍は皇帝の近衛兵部隊の敗北がたちまち伝播し、全軍が恐慌状態となり戦線は崩壊。ナポレオンは戦場から逃され、ワーテルローの戦いは1日で決着した。その後、ナポレオンは再度の退位を迫られたのち、イギリス軍によりセント・ヘレナ島に流され、1821年に亡くなった。

第1章 フランス革命

1774年、ルイ16世が王権についた当時、フランスは深刻な財政危機に直面していた。この危機は、ヴェルサイユ宮殿造営などの王室による散財の慢性化や、イギリスなどとの長期にわたる対外戦争による軍事費の増大に起因していた。さらに、18世紀中期の七年戦争やフレンチ・インディアン戦争により、フランスは多くの植民地を喪失し、王室の権威は揺らぎはじめていた。

この時期フランス社会は、第一身分の聖職者と第二身分の貴族が免税をはじめとした様々な特権を享受する一方で、国民の98%を占める第三身分の平民は高い税金が課せられながらも政治的な権利は制限されていた。

ただし、平民は比較的裕福な都市部の商工業者や地主らを中心とするブルジョワジーと、貧しい農民や労働者とに分かれ、双方には大きな経済格差があった。特に農民の多くは貴族やブルジョワジーから土地を借りて耕作する小作人であり、重い小作料や周期的な寒波がもたらす飢饉などに苦しんでいた。

一方、17世紀以来提唱されてきた啓蒙思想の影響で、平等や人権の理念がブルジョワジーを中心に高まってきた。さらにこのころ、アメリカ大陸でイギリスからの独立を求める独立戦争が発生し、フランスは反イギリスの立場からアメリカと軍事同盟を締結。この戦いでフランスから従軍したラ・ファイエットなどの改革派貴族らは、アメリカ人が自由と平等のために自ら戦う姿を目の当たりにし、思想や軍事面で大きな影響を受けた。

この戦争でフランスはアメリカとともに勝利を掴んだが、多額の軍事費の支出によりフランスの財政危機は深刻化した。その結果、啓蒙思想を背景としたブルジョワジーや改革派貴族らは、守旧派の貴族や聖職者に対して改革の動きを起こした。彼らは財政改革のために旧態依然とした国家体制、とりわけ聖職者や貴族の特権である税負担の改善を主張し、これを承認した国王は第一から第三身分までの代表が参加する国民議会を召集した。

しかし、国民議会ではブルジョワジーを中心とする第三身分出身者やこれに同調する改革派貴族・下級聖職者と、封建的特権を守りたい保守派貴族や聖職者らとの対立が激化した。これに対し、宮廷や保守派貴族らは第三身分から支持されていた財務総監ネッケルを罷免することにより巻き返しを図ったが、これに憤慨したパリ市民らは不安と怒りを募らせデモを開始した。市民らは国王が軍隊を差し向けるのではないかと懸念し、1789年7月14日に火薬と弾薬を奪うべく、監獄として使用されていたバスティーユ要塞を攻撃し、これを降伏させた。この事件を契機としてフランス革命が勃発し、保守派貴族の多くは海外へ亡命した。

一方で国王自身は市民らの行動を追認したことから市民らの支持を集めたため、革命当初は比較的穏やかな形で社会の改革が図られた。しかし国王が聖職者や貴族らの特権をなかなか廃止しないことや、物価高騰や保守派貴族の反撃の噂などにより市民は不安感に苛まれた。その結果、1789年10月5日にパリ市民がヴェルサイユ宮殿に押しかけ、国王夫妻をパリのチュイルリー宮殿に移す事件が発生した。

これ以降、国王はパリ市民の管理下に置かれ、封建的特権の廃止や人権宣言など第三身分からよせられる様々な法案を承認せざるを得ない状況となった。
その後しばらくの間、革命はブルジョワジーや改革派貴族らが主導し、財政危機への対応として教会財産の国有化と売却、また紙幣の発行が実施された。しかし、この間も国王は意に沿わない政策の承認や、パリ市民らによる監視下の生活を強いられていた。そこで国王とその家族は1791年6月にチュイルリー宮殿からの脱出を決行したが、国境近くの町で正体を見破られ、パリに連れ戻された。この事件を契機に国王の権威は失墜し、王権の制限を唱える共和的な勢力と、ブルジョワジーらからなる立憲君主制の勢力との対立が激化した。

こうした中、議会は革命に干渉しようとするオーストリアに対し宣戦を決議、1792年4月より開始された戦争は革命を排除しようとする君主国家群の参戦を促し、フランスは四面楚歌の状態に陥った。これに対抗するフランス軍の指揮をとる貴族の多くが亡命していたため、満足に戦える状況になかった。この混乱に乗じて、国王は議会と対決姿勢を見せ巻き返しを図ったが、議会は1792年8月10日に王権を停止し、国王一家を幽閉した。

1792年9月、祖国防衛の意思が固い市民からなるフランス軍はプロイセン軍に勝利し、共和制に移行したフランスの底力を見せた。一方議会は国民公会と名を変え、国王の処遇を巡りブルジョワジーからなる勢力と、過激な処置を求めるロベスピエールらジャコバン派との間で激論が交わされた。その結果、裁判にかけられた国王は死刑となり、それ以降はジャコバン派が他の勢力を追放、事実上の独裁体制を築いた。ジャコバン派は封建制の完全撤廃や国民の総動員体制を整え、諸外国と結びつき革命政府に反旗を翻した地方都市に討伐軍を差し向けた。その戦いの中でも、イギリス海軍の力を背景に頑強に抵抗していた港湾都市トゥーロンの攻略に大きな役割を果たしたナポレオンの活躍は特筆に値し、将軍の地位を与えられることとなった。

革命が次第に先鋭化していく中、1793年の秋ごろからジャコバン派の政府は、反革命と目した人物を革命裁判により即決で死刑とする、いわゆる恐怖政治を開始した。恐怖政治は1年以上続き、その犠牲者には国王夫人も含まれた。しかし、人々は次第に自分自身が裁判にかけられる恐れを抱き、議会の議員も明日がわからない日々の中で恐怖に苛まれた。その結果、1794年7月27日の議会でロベスピエールへの批判演説を皮切りにクーデターが発生、ロベスピエール一党は死刑となり、恐怖政治は終わりを告げた。

第2章 ナポレオン戦争

恐怖政治の終焉以降もフランスの社会は紙幣の乱発によるハイパーインフレや、社会機構の麻痺による食糧不足に襲われ、民心は混乱した。この結果、1795年の秋口のパリは王党派の勢力が盛り返し、政府に対して武装反乱を企てた。これに対し革命政府はトゥーロン攻略の立役者でありながら不遇を囲っていたナポレオンに対し、王党派の鎮圧を託した。

ナポレオンは不利な状況を覆し、反乱の鎮圧に成功し、その実力が広く認められた。こうした実績を評価され、1796年に発足した総裁政府において、ナポレオンはイタリア派遣軍の司令官に抜擢された。

このころもフランスは諸外国との戦争が継続していたが、軍需品や食糧の慢性的な不足に苦しんでいた。しかし革命以前の軍隊で将校を務めた貴族の多くが逃亡したことから、軍人はその出自に関係なく能力により登用されるシステムとなり、平民でも働きぶり次第で立身出世が可能であった。兵士自身も革命と祖国を守る意欲にあふれ、その士気は高かった。ナポレオンはこうしたフランス共和国軍の特性を巧みに利用し、劣悪な状況にあったイタリア戦線の自軍を鼓舞することで、優勢なオーストリア軍との戦い臨んだ。ナポレオンは積極的な機動作戦など、当時の軍事的常識を超える戦術によりオーストリア軍を翻弄し、これを次々と撃破。翌1797年春にはオーストリアとの間で有利な講和を結ぶことに成功し、国民的な英雄へと躍り出た。

こうしたナポレオンの才覚は周辺国との戦争や、再び勢力を伸ばしていた王党派への対策に大きく貢献したが、一方で個人的な名声は総裁政府にとっては疎ましいものでもあった。そこで総裁政府は自身の功績を高めたいと欲するナポレオンのエジプト遠征案を、厄介払いを兼ねて承認する。

1798年5月、エジプトに出帆したナポレオンとその軍隊はピラミッドの戦いで優勢なオスマン帝国軍に勝利し、カイロを占領した。しかしカイロ占領直後、イギリス艦隊の攻撃によりフランス艦隊は壊滅的な打撃を受け、遠征軍の退路は断たれた。その後もナポレオンはエジプトやシリアで戦ったが、この間に本国の政情は不安定となった。さらに対仏同盟諸国軍の巻き返しにより欧州のフランス軍は敗北を重ねていた。そこでナポレオンは1799年10月、エジプトからパリに帰還し、自ら第一執政を名のる新政権を樹立した。

1800年、ナポレオンは第二次イタリア遠征を決行し、アルプス山脈を越えてオーストリア軍を急襲し、マレンゴの戦いでオーストリア軍に対し再び大勝した。この勝利をきっかけ
にオーストリア、ついで対仏同盟の中心であるイギリスと講和条約を結んだナポレオンは内政の安定に重点を移し、1804年、国民投票によりフランス皇帝に即位した。

一方このころ再度フランスに立ち向かったイギリスはオーストリアやロシアらと共に再度の対仏同盟を結成し、フランスとの戦端を開いた。1805年のトラファルガーの海戦によりフランス艦隊が完敗しイギリスへの上陸を断念したナポレオンは同年12月、アウステルリッツの戦いでオーストリア皇帝とロシア皇帝が率いる連合軍に大勝し、翌年には反旗を翻したプロイセンを痛撃。


1807年にはイギリスを除く欧州諸国のほとんどを軍門に下し、ナポレオン治政下のフランス帝国は絶頂期を迎えた。

しかし1808年、スペイン国王に自らの兄を就けることを企図して侵攻したスペインにおいて、スペイン軍のゲリラ攻撃やこれに加勢したイギリス軍との戦闘に苦しみ、20万人以上の大軍勢をスペイン戦線に投入せざるを得なくなった。これを好機と見たオーストリアは1809年に再度フランスに宣戦を布告、ナポレオンの戦いを学んだオーストリア軍はワグラムの戦いで敗北したものの善戦した。この戦いによりナポレオンはオーストリアから多額の賠償金を得ることができたものの、その権勢に陰りがみえてきた。

1812年、ナポレオンはイギリスとの貿易の禁止を諸国に命じた大陸封鎖令に背いたロシアに対し、これを懲罰するため60万人あまりの軍勢を率い、ロシアへの遠征を開始した。しかしロシア軍の焦土作戦により食料を現地徴発に頼るフランス軍の弱点が露呈し、またコサック騎兵らのゲリラ戦術によりその勢力は損耗した。さらに9月に入城したモスクワからの退却は10月~12月にかけて行われたが、飢えと寒さに加え、ロシア軍からの度重なる襲撃により遠征軍のほとんどを喪失し、本国に帰還できた兵は5000程度と言われている。

モスクワ遠征の悲惨な敗北の結果、ナポレオンに屈していた諸国は反旗を翻したが、これに対抗するフランス軍の多くはロシア遠征で失われていた。やむなく新兵で補充したナポレオンの軍隊はロシアやプロイセンらの攻勢を受け止められず、1813年10月のライプチヒの戦いで惨敗を期した。翌1814年にはフランスの各方面に合計40万を超える各国の軍隊が侵攻を開始し、3月にはパリが陥落。


 配下の将軍らに退位を促されたナポレオンは4月にこれを受諾し、エルバ島へと流された。これにより革命以来、20年以上に渡りフランスと欧州諸国との間で繰り広げられた戦いの幕は閉じたかに見えた。

第3章 皇帝の帰還

エルバ島に流されたナポレオンは孤独というわけではなく、数百名の近衛兵や近習の同行が許され、1万2000人が暮らす島内で自由に行動した。同時に、エルバ島を往来する多数の船からの情報を通じて、欧州の情勢の把握に努めていた。一方、ナポレオン配流後のフランスではブルボン王朝が復活し、ルイ18世が即位した。ルイ16世の弟であるルイ18世は復古的な人物で、貴族階級の重用や封建的特権の復活などフランス革命の成果をことごとく否定した。また欧州諸国との間での屈辱的な講和条約を締結するなど、その施策は国民感情を逆なでした。

こうした中、ナポレオンに勝利した欧州各国はウィーンで戦後処理を話し合う会議を開催していたが、フランスやフランスに与した諸国の領有権を巡って各国は激しく対立し、会議はいたずらに長期化した。さらに国内外からナポレオンを暗殺しようとする謀議も図られたが、これらの情報はパリに残した部下より密かにナポレオンのもとに伝えられた。ナポレオンはイギリスの監督官の目を欺くため、表面上はエルバ島での生活を楽しむふりを装いつつ、帰還の機会を伺っていた。

1815年2月、機が熟したとみたナポレオンは近衛兵やエルバ島からの徴集兵など1000人余りの部下と共にエルバ島を脱出し、3月1日にカンヌ近傍のサン・ジュアン湾に上陸した。ルイ18世に嫌気がさしていた農民らは皇帝の帰還を歓喜で迎え、パリを目指すナポレオンに付き従った。

一方、ナポレオン上陸の報は直ちにパリのルイ18世に届けられ、討伐隊を派遣した。しかし、ナポレオンを阻むはずの部隊は、そのことごとくがナポレオンに合流し、ナポレオンの軍勢は日ごとにその勢力を増した。パリに接近するナポレオンに狼狽したルイ18世はかつてナポレオンの腹心であったネイ元帥に討伐軍を任せたが、ネイもナポレオンへと寝返った。

1815年3月20日、逃亡するルイ18世と入れ替わりにパリに入城したナポレオンは新政権を組閣し、各国に対して外交を申し出た。一方、ウィーンで対立していた各国は、共通の敵の再来により足並みを揃え、ナポレオンの討伐のため60万の軍勢によるフランスへの再侵攻を企図した。これに対しナポレオンはかつて旗下であった諸将を招請したが、戻らぬものも多かった。また国王のもとで縮小された陸軍を再建すべく大規模な志願兵を募り、なんとか12万余りの軍を編成した。ナポレオンは彼我の圧倒的な戦力差から、各国軍が合流しフランスに殺到する前に各個撃破していく戦略を用いざるを得なかった。そのためにも、まずはベルギー方面に布陣するイギリス=オランダ同盟軍とプロイセン軍が合流する前にこれを撃破し、その後に襲来するロシア・オーストリア軍に備えようとした。

1815年6月初旬、ナポレオンは各地に分散する自軍を集結させ、15日にサンブル川を超えてベルギーへ侵攻した。ナポレオンに率いられたフランス軍12万はイギリス=オランダ同盟軍とプロイセン軍との間隙を突き、シャルルロワより部隊を2つに分けて進軍を開始した。ナポレオンはブリュッヘル将軍が率いるプロイセン軍主力の撃破を目指し、16日にリニーにおいて自軍を上回る84000のプロイセン軍と戦い、戦いには勝利したもののブリュッヘルを含む主力の逃走を許してしまった。
同日、ナポレオンより兵を預けられたネイはカトル・ブラにおいてウェリントン将軍が率いるイギリス=オランダ同盟軍に攻撃を仕掛けた。しかし防御に徹したウェリントンに対し、増援との合流に失敗したネイの決め手に欠く攻撃により、戦闘は引き分けに終わった。

翌17日、先のリニーの戦いにおいてブリュッヘルが敗走したと確信したナポレオンは、グルーシー元帥に33000余りの兵を与え、プロイセン軍の捕捉撃滅を厳命した。また、ナポレオンはイギリス=オランダ同盟軍が潜むカトル・ブラに向かったが、そのころにはウェリントンは豪雨の中、自軍を防御に適したモン・サン・ジャンの丘への撤退を完了しつつあった。その後、ウェリントンを追うナポレオンはモン・サン・ジャンの南1キロほどにあるラ・ベル=アリアンスの旅館に司令部を置いた。こうして両軍はブリュッセルに向かう街道に沿ったワーテルロー村の南で対峙しつつ、17日の夜を明かすこととなった。

第4章 ワーテルローの戦い

1815年6月18日未明、前日から断続的に続く雨が止んだが、野営を強いられた両軍の兵士の疲労も大きかった。また、ワーテルローの村落を囲む田園地帯や道路は一面が泥で覆われ、ぬかるんだ地面は大砲の移動を困難にさせた。

70000余りのイギリス=オランダ同盟軍はウェリントンの作戦に従いモン・サン・ジャンのゆるやかな丘陵を中心に左右に戦線を展開したが、一部の部隊は村落に点在する農場に配置された。これらの農場は同盟軍の戦線から突出していたが、簡易的な城塞としてフランス軍による攻勢を受け止める役割が期待された。さらにウェリントンは主力部隊を丘の尾根の裏側の斜面に配置したため、フランス側からは全軍の一部しか視認することはできなかった。しかし同盟軍はイギリスに加えオランダやベルギー、ドイツ人らによる連合軍であるうえ、精鋭部隊が不足していた点がウェリントンには気掛かりであった。

一方、ナポレオンのフランス軍はグルーシーに軍の一部を割いたため7万2000余となっていた。フランス軍の前線ではぬかるみのため砲車の移動に困難をきたしていた。このため連合軍に対する攻撃は、地面のぬかるみが乾くまでの間延期せざるを得なかった。

このときナポレオンは、先のカトル・ブラの戦いでウェリントンが敗走したものと認識していたため、今回の戦闘でもウェリントンは大した戦闘をせずに逃げ出すものと考えた。このため、ナポレオンは兵力を集中させるためにグルーシーの軍を呼び寄せるように提案した幕僚らの意見を受け入れなかった。しかし、所在を掴めていなかったブリュッヘルのプロイセン軍40000は、このときウェリントンと合流すべく強行軍でワーテルローに向かっており、それを追うグルーシーの軍はワーテルローから遠く離れた地を行軍していた。

11時半、フランス軍左翼に属する王弟ジェローム・ボナパルトの師団8000が、同盟軍戦線から突出したウーグモン城館への攻撃を合図に戦いが始まった。ここには1100あまりの同盟軍兵が配置されていたが、農場でありながら長大な壁で囲まれたウーグモンは、即席の砦としてフランス軍の攻撃に備えていた。

ウーグモンを巡る戦いは激戦となり、フランス軍は次々に増援を送り込んだが、10000を超えるフランス軍はこれを落とせなかった。ナポレオンはウーグモンを中心とする敵の右翼に陽動攻撃を実施し、敵の注意が逸れたところで左翼からの突破を図る作戦であったが、その計画はほころびを見せ始めていた。

正午を過ぎたころ、敵戦線に対する歩兵の攻撃を支援するため、フランス軍の80門余りの大砲の集中配備が完了した。このときナポレオンは攻撃対象を定めるため望遠鏡で敵戦線を観測したところ、遥か東を動く黒い影を発見した。当初、この影はグルーシーの部隊と思われたが、すぐにプロイセン軍であることが判明した。この予期せぬ事態に驚いたナポレオンは、グルーシーに急ぎ合流を命じる伝令を送るとともに、同盟軍との戦闘を速やかに決着させるべく、敵の中央から左翼への攻撃を決意した。

13時、フランス軍の一斉砲撃が開始された。この砲撃は猛烈なものだったが、同盟軍は大部分の兵を丘の尾根を越えた裏に布陣させていたこと、また雨でぬかるんだ地面により砲弾の威力が削がれたことから、同盟軍の損害は最小限に抑えられた。このときウェリントンはリニーの戦いと同じくひたすら防御に徹し、積極的な反撃を控えていた。

一方、ナポレオンは沈黙する同盟軍の様子から砲撃の効果を確信し、右翼から中央部に布陣するデルロン軍団に総攻撃を命じた。13時30分、フランス軍の約16000の歩兵が密集隊形を組み前進を開始した。彼らは息をひそめていたイギリス軍砲兵による砲撃を受けたが、歴戦の兵たちはこれをものともせず、戦場中央部に孤立した同盟軍の拠点、ラ・エイ・サント農場を包囲しつつ前進を続けた。

モン・サン・ジャンの丘を目指したフランス軍は、同盟軍を構成するオランダ・ベルギー軍を潰走させた。しかし、イギリス軍スコットランド人部隊の歩兵ならびに騎兵による断固たる反撃により大きな損害を被り、ナポレオンによる最初の総攻撃は1時間ほどで頓挫した。一方で、フランス歩兵を蹴散らした勢いでフランス軍砲兵に対する突撃を敢行したスコットランド騎兵が包囲殲滅されるなど、双方とも予断を許さない状況にあった。

15時30分ころ、プロイセン軍と同盟軍との合流が確実視される中、ナポレオンは膠着した戦線を打開するため、ネイ元帥に対し戦場中央部のラ・エイ・サント農場の奪取を命じた。当初、ネイは歩兵を伴った騎兵により攻撃を開始したが、この攻撃に対応するために一時的に移動した同盟軍を退却と誤解したネイは、騎兵1万騎を集結し突撃を開始した。

しかし突撃の過程では同盟軍による砲撃や、周囲の地面より低い街道に気付かず落馬する者などが続出。

さらにウィリントンは同盟軍の歩兵に20個の対騎兵用の方陣を組ませ、同盟軍の戦線に到達したフランス軍騎兵を寄せ付けなかった。

2時間余りの間、フランス軍騎兵は12回の騎兵突撃を敢行したが、大損害を被り攻撃は失敗に終わった。

史上に名高いネイの騎兵突撃が繰り返されるころ、フランス戦線の最右翼ではプロイセン軍の尖峰がプランスノア村に到達し、これを阻止すべくナポレオンが援軍として送り込んだ部隊が必死に戦線を支えた。しかしナポレオンが待望するグルーシーの所在ははっきりせず、一方でプロイセン軍はブリュッヘルの本隊が到達するのも時間の問題であった。
18時、不利な二正面での戦いを強いられつつあるナポレオンは、一刻も早くウェリントンとの戦いに決着をつけるため、いまだ400余りの同盟軍兵が抵抗していたラ・エイ・サント農場への攻撃をネイに命じた。双方の激烈な戦闘の結果30分後に農場はフランス軍の手に渡り、ここを拠点としたフランス軍の猛攻により今度はイギリス軍が守る戦線中央部が危機にさらされた。

19時、ラ・エイ・サントの奪取を絶好の機会と見たナポレオンは切り札として温存していた皇帝近衛兵のほとんどを投入し、同盟軍戦線中央部への総攻撃を開始した。ナポレオンと共に数々の戦場を戦い抜いた老近衛兵の士気は最高潮に達していた。一方、度重なる攻撃により疲労困憊となった同盟軍に対し、ウェリントンは兵たちを伏せさせフランス軍の攻撃を待ち受けた。ほどなく、密集隊形でゆるやかな丘の頂に達した近衛兵は、そこで待ち受けていたイギリス兵らの一斉射撃にさらされた。近衛兵は頑強に戦ったものの、19時40分頃には敗色が濃厚となり後退を始めた。一方、時を同じくしてブリュッヘルより分派されたプロイセン軍がフランス軍戦線右翼への攻撃を開始し、プランスノアにおいてもプロイセン軍本隊の前進が開始された。プロイセン軍の来援という新たな戦力を得たウェリントンは全軍の突撃を命じ、後退する近衛兵の追撃を開始した。一方フランス軍は皇帝の近衛兵部隊の敗北がたちまち伝播し、恐慌状態に陥った。

20時ころにはフランス軍の戦線のほとんどが崩壊状態となり、無秩序な敗走とそれを追う連合軍の追撃が始まった。これに対しナポレオンは最後に残された予備の近衛兵を投入、近衛兵部隊は方陣を組み敗走するフランス軍の後衛として任務を果たした。一方、憔悴したナポレオンは近衛兵らに馬車に乗せられ、戦場から落ち延びさせられた。

こうしてワーテルローの戦いは1日で決し、フランス軍・イギリス同盟軍・プロイセン軍合計で9万人近い死傷者を数えた。その後ナポレオンは戦場に間に合わなかったグルーシーの部隊に守られ、6月21日にパリに帰還。頼みの近衛兵部隊をはじめ、主力のほとんどを失ったナポレオンにこれ以上戦う気力はなく、翌6月22日、議会の決議により皇帝を退位した。その後の休戦条約の結果、ナポレオンは大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、1821年5月5日に生涯を閉じた。

人物紹介

ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)

ロシア遠征の失敗と、それに続く諸国民戦争に敗北したナポレオンはエルバ島に流されたが、これはナポレオンが圧倒的に強力であったからにほかならない。しかし、一時は欧州のほとんどを制覇したナポレオンは専制主義的な君主ではなく、あくまでも共和制国家の皇帝であった。何よりナポレオンは身分や家柄よりも実力で人間を評価し登用したが、それこそがフランス革命の成果にほかならなかったからである。

このためナポレオンが作り上げた大陸軍(グランド・アルメ)はナポレオンに対し、絶対の信頼と忠誠を尽くした。ゆえに、ナポレオンがエルバ島から帰還した際、討伐に派遣されたはずの将兵たちのことごとくが「皇帝万歳!」を叫び、皇帝の復帰を迎えている。

しかし、長年の戦役によりナポレオンのもとを去った元帥たちの多くは復職せず、ナポレオンの意を組める将帥が圧倒的に不足した。このためナポレオンは委細にわたるまで命令を発せざるを得ず、部下の思考を硬直化させる原因となった。さらに、ワーテルロー戦役全般におけるナポレオン自身の指揮も強引さを否めず、犠牲を伴う作戦が多かった。なお、敗北の後にパリへの帰還への成功は、ワーテルローの戦いに間に合わなかったグルーシー元帥の活躍にあったことはあまり知られていない。

ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(1769~1852)

アイルランドの小貴族の三男として生まれたウェルズリーは、当時の貴族制度が長子単一相続制度であるゆえに、数少ない未来の中から軍人で立身出世する道を選んだ。ウェルズリーは厳然とした階級制度の体制下に育ったため、貴族然とした容姿とふるまいは同い年のナポレオンとは対照的であった。

しかし後年、スペイン戦線での戦功によりウェルズリーをウェリントン公爵にならしめたものは、彼がフランス革命への干渉戦争を皮切りに、インドやポルトガル、スペインなど大英帝国の権益が及ぶあらゆる戦場で戦い続けた経験と、そこで身に着けた実力にほかならない。戦場のウェルズリーは兵士の生活に気を配り、自らは質素な身なりで過ごしたため、兵士からは鷲鼻の将軍として親しまれた。これによりウェズリーは貴族でありながらナポレオンと同様に、兵士の絶対的な信頼を勝ち得ることができた。こうした豊富な経験と高い士気を保つ兵士との組み合わせにより、ウェズリーはスペイン戦線でフランス軍を打ち破った。

ワーテルローの戦いにおいてもウェズリーの指揮は冷静沈着で、彼が最も得意とする守備に徹する戦いに努めた。また、兵士の略奪を固く戒めることにより、寄せ集めである同盟軍の綱紀を保ち、かつ親仏派が多いベルギー南部への配慮を怠らなかった。

ワーテルロー古戦場

古戦場の概要

ワーテルローを含むこの一帯はローマ帝国の属領として組み込まれていた。このため、いまでも街道の一部にローマ時代の痕跡を見いだすことができる。その後、中世までワーテルローは森林の中の寒村であったが、至近距離のブリュッセルが政治や商業の中心都市として発展するにつれ、ブリュッセルに通じる玄関口として、また複数の街道とが交差する交通の結節点として発展した。フランス革命に伴う戦争では、ワーテルローを含むベルギー全体はフランスに併合され、ナポレオンの退位までの20年間はフランスの支配下にあった。ワーテルローの戦いの当時の人口は1500人あまりだった。

戦いの後、ワーテルローは農村でありながらもナポレオン最後の戦いの地として国際的に有名となり、世界各地にワーテルローにちなんだ地名が名付けられた。

特に戦勝国のイギリスにとってワーテルローは自国の栄光を物語る聖地となり、ロンドン南部のウォータールー駅などの地名にその名残を見いだすことが出来る。

また、1826年には同盟軍のオランダ・ベルギー軍を率いたオラニエ公ウィリアムが戦勝記念と戦没者の慰霊のために造成したライオンの丘(高さ41m)が完成し、同地のアイコン的な役割を果たすことになった。こうしたことから、戦跡の観光を目的にワーテルローを訪れる者は比較的多く、早くも1850年代にはイギリスの旅行社が企画した国際観光ツアーの訪問先としてワーテルローが選定されている。

その後1912年には360度にわたって描かれた巨大な絵画を展示するサイクロラマ館が開館し観光地として大変な注目を浴びると共に、戦跡を巡る環境も整備された。しかし第一次、第二次の両世界大戦ではワーテルローを含むベルギーはドイツの占領下におかれ、戦跡の保存に苦慮する時期も経験している。

メモリアル1815

今日のワーテルローは首都ブリュッセルの通勤圏内であることから郊外のベッドタウンとして発展し、人口3万人あまりの都市となった。一方で、町の南東側を占める古戦場跡は戦いの当時から変わらない田園地帯のままに保全されており、近代的な都市と古戦場のエリアとが明確に分かれた町となっている。プランスノアなどを含む広い古戦場内には戦いの当時から存在していた建物が点在しており、その多くは私有である。たとえば両軍の激戦が繰り広げられた農家が現在も農家として使われているなど、古戦場巡りを通じて人々の営みが続いている姿を垣間見ることが出来る。これらの古戦場は徒歩で2時間から1日程度をかけ巡ることもできるが、その行程の多くは石畳や土など19世紀とほとんどかわらない道であり、両軍の兵士の気持ちに浸ることが出来る。

2015年、ワーテルローの戦いから200周年を記念し、記念博物館を中心とする古戦場内の複合施設群”メモリアル1815”が開館した。これらは古くから存在するライオンの丘やパノラマ館などの施設や、戦い当時の激戦地であったウーグモン城館、そして古戦場の景観を損なわないよう地下に建設された記念博物館から構成されている。メモリアル1815の特徴は様々な技術を用いた臨場感あふれる展示と、古戦場内に過去から存在する施設、そして古戦場の自然との調和がとれている点にある。またワーテルローは歴史を体験できる場としても有名な古戦場であり、毎年6月には1000人近い歴史再現者が戦いや当時の生活を再現するイベントを開催している。特に2015年はワーテルローの戦い200周年の節目の年となり、フランスやイギリス、ドイツをはじめ欧州各国から5000人を超える歴史再現者が参加した一大合戦絵巻が開催され、その模様は世界中で報道された。