所在地:関ケ原町大字関ケ原2491-101
藤堂隊・京極隊は、戦いが始まると大谷吉継が指揮する諸隊と刀を交えます。小早川秀秋が寝返った際、藤堂から調略を受けていた脇坂安治らも寝返り、東軍を勝利へと導きました。
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(専用ゴーグルは今後、関ケ原古戦場でのイベントやキャンペーンのノベルティとして配布予定です)
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所在地:関ケ原町大字関ケ原2491-101
藤堂隊・京極隊は、戦いが始まると大谷吉継が指揮する諸隊と刀を交えます。小早川秀秋が寝返った際、藤堂から調略を受けていた脇坂安治らも寝返り、東軍を勝利へと導きました。
所在地:関ケ原町大字松尾111
豊臣恩顧でありながら、石田三成と対立関係にあった福島正則は東軍として参戦しました。井伊・松平隊に抜け駆けされ、先陣の功を許してしまうと、直後に宇喜多隊に攻めかかりました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原4146-1
西軍の副大将を担った宇喜多秀家は、関ケ原進軍時に殿(しんがり)を務め、夜半の行軍中に東軍の先鋒・福島隊に追いつかれ、小競り合いになったといわれます。本戦では、西軍最大の兵力約17,000を擁して戦いました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原2368-1
西軍は笹尾山に石田三成、松尾山に小早川秀秋という鶴翼の陣、東軍は関ケ原の盆地中央で福島正則を先陣とした魚鱗の陣を形成。そして9月15日、松平忠吉・井伊直政が宇喜多隊に発砲したことを機に、天下分け目の戦いが始まりました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原4008
関ケ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣した石田三成。麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に、西軍は次々に敗走しました。三成も伊吹山方面へ逃れました。
所在地:関ケ原町大字関ケ原959-2
徳川家康は午前11時ごろ、戦況が把握できないため、笹尾山の三成の陣の正面であるこの陣地に、本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したと言われています。合戦後は、ここで首実検が行われました(床几場)。
所在地:関ケ原町大字関ケ原908-3
関ケ原合戦当日は、現在のJR関ヶ原駅付近に布陣しました。東軍の先鋒は福島正則でしたが、徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた井伊直政は、松平忠吉とともに抜け駆けし、宇喜多隊に発砲し、合戦の火ぶたが切られました。