石田三成コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 石田三成コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館

ishida mitsunari

合戦時に笹尾山から石田三成が見た景色が見える場所をはじめ
最大の激戦地となった決戦地、盟友である大谷吉継墓などを巡ります。
山中を通るため、体力が必要なコースです。

※スマートフォンではARを押してから、ARを押すとかざして見ることができます。

ARを押して2画面で表示された場合は「Exit VR」を押すと戻ります。
2画面での表示は専用のゴーグルを使用すると立体的に見ることができます。
(専用ゴーグルは今後、関ケ原古戦場でのイベントやキャンペーンのノベルティとして配布予定です)

  1. 戻るボタン

    戻るボタン

    ひとつ前の史跡に戻します。

  2. 史跡一覧 表示・非表示ボタン

    史跡一覧
     表示・非表示ボタン

  3. コントロールボタン

    コントロールボタン

    左右上下に動かしたり、画面を拡大縮小します。

  4. フルスクリーン画面モードボタン

    フルスクリーン
    画面モードボタン

  5. コントロールパネル表示・非表示ボタン

    コントロールパネル
    表示・非表示ボタン

  6. 進むボタン

    進むボタン

    ひとつ後の史跡に進めます。

古戦場上空ツアー

笹尾山

松尾山

南宮山

関連史跡

島津義弘陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原1869-3

甥の島津豊久らと約1,500の兵を率いて陣を構えます。合戦当日の午前中は防御に徹し、石田三成からの援軍要請も拒否。西軍が総崩れすると東軍の中央を敵中突破し薩摩へ帰還しました。

大谷吉継墓

所在地:関ケ原町大字藤下678-2

最期を悟った大谷吉継は自身の首を隠すように家臣・湯浅五助に命じ、自刃。首を隠した直後、藤堂高虎の甥に見つかった五助は、自らの首と引換に吉継の首の秘匿を懇願したといいます。吉継の墓は藤堂家により建立されたといわれています。

大谷吉継陣跡

所在地:関ケ原町大字山中30-1

小早川秀秋の不穏な動きを警戒した大谷吉継は、東山道(中山道)を見下ろし、松尾山を正面に望む山中に布陣。病のため輿に乗って部隊を指揮しますが、小早川秀秋や脇坂安治らに三方から攻められ、隊は壊滅しました。

石田三成陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原4008

関ケ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣した石田三成。麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に、西軍は次々に敗走しました。三成も伊吹山方面へ逃れました。

決戦地

所在地:関ケ原町大字関ケ原1202

小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れしたころ、石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊で、この地は埋め尽くされたといわれています。天下分け目の戦いの勝敗は、わずか半日程度で決しました。

岡山烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原732-27

標高164mの丘陵で、関ケ原が一望でき、戦況が見渡せる場所です。ここには東軍・黒田長政と竹中重門が、約5,000人の兵を率いて布陣しました。開戦すると攻撃の合図である烽火(のろし)を上げました。

細川忠興陣跡

所在地:関ケ原町関ケ原811-104

細川忠興は、豊臣恩顧の武将ですが、石田三成とは仲が悪く、最初から東軍として参加しました。黒田・竹中隊とともに石田隊を果敢に攻めました。

徳川家康最後陣地

所在地:関ケ原町大字関ケ原959-2

徳川家康は午前11時ごろ、戦況が把握できないため、笹尾山の三成の陣の正面であるこの陣地に、本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したと言われています。合戦後は、ここで首実検が行われました(床几場)。

田中吉政陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原959-2

田中吉政は、最後には東軍諸将とともに石田隊を壊滅させました。合戦後には逃走した三成の探索を命じられ、伊吹山中の洞窟に潜んでいた三成を捕縛しました。