徳川家康コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 徳川家康コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館

tokugawa ieyasu

最初に布陣した桃配山から、戦況を好転させるために移動した陣場野まで、家康進軍の足跡をたどります。
中距離コースです。

 

※スマートフォンではARを押してから、ARを押すとかざして見ることができます。

ARを押して2画面で表示された場合は「Exit VR」を押すと戻ります。
2画面での表示は専用のゴーグルを使用すると立体的に見ることができます。
(専用ゴーグルは今後、関ケ原古戦場でのイベントやキャンペーンのノベルティとして配布予定です)

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古戦場上空ツアー

笹尾山

松尾山

南宮山

関連史跡

本多忠勝陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原3441-1

徳川四天王の1人に名を連ねる本多忠勝。合戦当日の午後には、松平・井伊隊とともに島津義弘を追撃しました。

徳川家康最初陣地

所在地:関ケ原町大字野上1424-1

徳川家康は、慶長5(1600)年9月14日に岡山(大垣市)へ着陣。9月15日午前6時ごろには、桃配山に布陣しました。その後、戦況を把握し、好転させるべく、ここから前進し、前線近くで東軍を鼓舞しました。

松平忠吉・井伊直政陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原908-3

関ケ原合戦当日は、現在のJR関ヶ原駅付近に布陣しました。東軍の先鋒は、福島正則でしたが、徳川家が先陣を切ることが重要だと考えた井伊直政は、松平忠吉とともに抜け駆けし、宇喜多隊に発砲し、合戦の火ぶたが切られました。

東首塚

所在地:関ケ原町大字関ケ原908-3

戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された戦死者の処理を竹中重門に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2か所に首塚を造営しました。朱色の門を抜けた敷地内にはスダジイの古木のみが残っています。

決戦地

所在地:関ケ原町大字関ケ原1202

小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れしたころ、石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊で、この地は埋め尽くされたといわれています。天下分け目の戦いの勝敗は、わずか半日程度で決しました。

石田三成陣跡

所在地:関ケ原町大字関ケ原4008

関ケ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣した石田三成。麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に、西軍は次々に敗走しました。三成も伊吹山方面へ逃れました。

徳川家康最後陣地

所在地:関ケ原町大字関ケ原959-2

徳川家康は午前11時ごろ、戦況が把握できないため、笹尾山の三成の陣の正面であるこの陣地に、本陣を移しました。一説には、ここから松尾山の小早川秀秋を鉄砲で威嚇したと言われています。合戦後は、ここで首実検が行われました(床几場)。