ゲティスバーグ古戦場 - 岐阜関ケ原古戦場記念館 ゲティスバーグ古戦場 - 岐阜関ケ原古戦場記念館

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ゲティスバーグの戦い(概略)

19世紀中ごろ、アメリカの北部諸州と南部諸州とは奴隷制度の是非を巡って対立を深めていた。この対立は、1860年の大統領選挙をきっかけに南部諸州が連邦から離脱したことで決定的となり、翌1861年4月、連邦からの離脱を目指す南部と、これを阻止したい北部との間で南北戦争が勃発した。戦争は当初、短期間で終わると思われたが、次第に長期戦の様相を呈してきた。戦争当初、人口や工業力に勝る北部が優勢と思われたが、北バージニア軍を率いるリー将軍など優れた将を得た南部は善戦した。しかし1863年に入るとミシシッピ河を中心とする西部戦線で南軍は劣勢に追い込まれ、東部戦線においても物量に勝る北軍による一大攻勢が開始された。

こうした状況の中、リーは戦局の打開を目指すための北部侵攻作戦を立案した。1863年6月、リー将軍が率いる北バージニア軍はペンシルヴェニア南部に侵攻、南軍の小部隊が靴を調達するために進出したゲティスバーグで南北両軍は接触し戦闘が始まった。

1863年7月1日に始まった戦闘は当初、町の西から東へと進撃する南軍の大部隊に対し、これを迎撃する北軍の騎兵隊との間で戦端が開かれた。この戦闘の過程で双方とも援軍を呼び寄せたが、いち早く部隊を集結することができた南軍が優勢となった。夕方には練度に勝る南軍の攻撃により北軍は町の南に位置するセメタリー・ヒルの丘への後退を余儀なくされた。しかし、新たに防衛線を築くことに成功した北軍はミード将軍を迎え、セメタリー・ヒルを中心とした釣り針を逆にした形の戦線を構築することに成功した。

一方、南軍は北軍の戦線を北と東西から取り巻く形で布陣した。リーは各軍団長と作戦を討議し、第1軍団長ロングストリート将軍に対し北軍左翼への攻撃を命じ、同時に第2軍団のイーウェルに対しても東部からの攻撃を命じた。

しかし攻撃の準備は遅滞し、攻撃は午後にずれ込んだ。午後、北軍戦線の一部に突出部を見いだしたロングストリートはこれを粉砕し、その勢いで北軍の最南端のリトル・ラウンド・トップに向かった。ロングストリートは、北軍最南端の小山を占拠することにより北軍の崩壊を招くことが可能であると考え猛攻を加えた。しかしこの地を守るメイン州の連隊らの活躍によりこの攻撃は失敗に終わり、戦況に大きな進展がないまま2日目の戦いは終了した。

7月3日、戦場に遅れて到着した師団を得たリー軍は、それらの戦力をもとに再度の攻勢をかけることを企図した。作戦としては前日同様、北軍戦線の右翼および左翼の両側面に攻撃を実施し、戦線中央部に隙が生じたタイミングで中央部への攻撃を敢行するというものであった。しかし、その攻撃は敵の砲火にさらされつつ1.6㎞もの原野の行軍を強いるものであり、非常に困難であることが予想された。このためロングストリートはこの命令に異を唱えたが、成功を確信するリーの命令に従わざるを得なかった。午後、砲兵の大部分を集結した激しい準備砲撃の後、ピケット将軍らの歩兵隊1万6千による突撃が開始された。彼らはセメタリー・ヒルの北軍戦線を突破することを期待されたが、北軍の激しい砲火により南軍の突撃は失敗し、攻撃部隊の大半を喪失する大損害を被った。翌日、自らの失敗を悟ったリーはゲティスバーグから撤退した。同じ7月4日には西部戦線でもミシシッピ河における南軍最後の要衝ヴィックスバーグが陥落した。この二つの戦いがともに北軍の勝利に終わったことが転換点となり、南北戦争の流れは北部に有利に傾いた。その後もリーと北バージニア軍は抵抗を続けたが、1865年4月にアポマトックスにおいてリーが降伏したことにより、南北戦争は事実上終結した。

第1章 南北戦争に至る道

アメリカ合衆国の成り立ちは、宗主国イギリスより課された様々な課税や支配権の強化に不満を持ったアメリカ植民地の住人が、市民としての自由と権利を求めて戦ったアメリカ独立戦争(1775-1783)により始まった。この戦争は、1775年4月のレキシントン・コンコードの戦いによって最初の戦闘が勃発、翌1776年にフィラデルフィアで独立宣言が採択され、13の植民地はイギリスからの独立を宣言した。

当初、ワシントン将軍が率いるアメリカ軍(アメリカ大陸軍)は民兵が主体であり、職業軍人からなるイギリス軍に劣勢を強いられ、ボストンやニューヨークなどの大都市を失陥した。

しかし負け戦の中でもワシントンは粘り強く指揮をとり続け、アメリカ大陸軍を精強な軍隊に育て上げた。さらにイギリスと対立していたフランスは1778年2月にアメリカと同盟条約を締結し、1780年にフランス軍の本隊が到着する。また、ゲリラ戦術に長じたアメリカ人民兵の活躍もあわせ、戦争の流れはアメリカ軍優位に傾いた。

1781年10月、ヨークタウンにおいてアメリカ大陸軍とフランス陸海軍に包囲されたイギリス軍が全面降伏したことを契機にイギリスは休戦を模索し、1783年のパリ条約によってアメリカの独立が正式に承認された。

その後、アメリカ国内は戦争の影響による経済的な混乱や、国の在り方を巡る対立が生じた。そこで1787年にフィラデルフィアにおいて、独立13州から成る連邦制度の導入を目指す憲法制定会議が開催。1789年には憲法が批准され、初代大統領としてジョージ・ワシントンが選出された。ただ、新たに成立した合衆国では、すでに奴隷制度を廃止していた北部諸州と、奴隷労働に依存する南部諸州との軋轢が生じていた。そこで、奴隷制度の存廃ついては州の権利とされ、国家は介入できないものとされた。

19世紀に入ると道義面から世界的に奴隷制度に対する批判が高まり、各国で奴隷制度が廃止された。アメリカにおいても南部の奴隷制度に対し、これを廃止させようとする運動が北部を中心に広がった。一方南部では経済の根幹をなす奴隷による農業、とりわけ商品価値が高い綿花の需要が大きく伸びたため、より多くの土地と奴隷を必要とした。

このころアメリカでは西部の開拓が進み、新たに誕生した西部領土で奴隷制度を認めるか否かを巡り、北部と南部との対立が激化した。そこで1820年には双方の妥協策としてミズーリ協定が締結され、自由州と奴隷州とのバランスを維持するとともに、一時的に奴隷制度の拡大を抑制することにつながった。

しかし、その後も西方に急拡大する国土を巡る南北の緊張は収束せず、1850年にはカリフォルニアを自由州として連邦に加盟を認める代わりとして、南部からの逃亡奴隷を奴隷主に返すことを義務付けた逃亡奴隷法が成立し、北部の人々の抗議を招いた。さらに、北部では南部奴隷制度を描いた小説「アンクル・トムの小屋」が出版され、国内外でベストセラーになったことで、より多くの人々の間に奴隷制度に反対する機運が生まれた。

1854年、西部において新たに編成される州が奴隷制度を認めるか否かを入植者の投票で決めるとしたカンザス・ネブラスカ法が可決された。この法律により、従来は地理的な境界により自由州と奴隷州を区分したミズーリ協定の枠組みが反故にされた。開拓農民にとって奴隷制度は土地取得を難しくさせ、自由な労働を重視する価値観とも相反する脅威であった。このため奴隷制度を拡大させたい南部と、それを阻止したい北部双方の住人がカンザスに入植し、次第に住人同士の武力衝突へとエスカレートした。この衝突を契機に南北間の緊張は高まったが、当時のブキャナン大統領は対立の解消に消極的であり、奴隷制度を巡る反目は激化した。

1860年の大統領選挙における争点はまさに奴隷制度であったが、これは前年に発生したジョン・ブラウンによる奴隷解放を目指す武力蜂起事件が全米に与えた影響も大きかった。この選挙では反奴隷制度の立場から結成された共和党がリンカーンを大統領候補に据え、奴隷制度の拡大に反対した。一方、民主党は奴隷制度を巡って南北に分裂し統一候補を選出できないばかりか、南部民主党は奴隷制度の維持と拡大を主張し、リンカーンが選挙に勝利した場合、南部諸州が連邦から脱退する可能性を示唆した。
11月に行われた大統領選挙の結果はリンカーンが勝利し、これに反発したサウスカロライナ州が12月に連邦からの離脱を宣言、翌1862年2月までに南部の5州がこれに続いた。同月、離脱した南部6州はアメリカ連合国(南部連合国)を結成し、ジェファーソン・デイヴィスを南部連合国の大統領に選出した。翌3月には南部連合国はテキサス州を加えた7州となったが、新たに連邦の大統領に就任したリンカーンは南部諸州の離脱を認めず、連邦への復帰を促した。
一方、南部連合側はリンカーンに反発し南部各所にある連邦軍の武器庫を次々に接収、自らの軍隊の創設に着手した。そして4月12日、南部側に位置しながらも、南部への明け渡しを拒否していた連邦軍のサムター要塞に対して南部は攻撃を開始し、南北戦争の戦端が開かれた。

第2章 南北戦争の経過

1861年4月12日、サウスカロライナ州サムター要塞で開始された戦闘は3日間で終結し、サムター要塞は南部側に降伏した。その翌日、リンカーンは南部の反乱を鎮圧するために7万5千人の志願兵を募ったが、この動員はいまだ連邦にとどまっていた南部の奴隷諸州にとっては宣戦布告に等しく映った。その結果、バージニア州ら4州は連邦を離脱し、南部連合国に加わった。これにより南部連合国は11州となり、首都をバージニア州の州都リッチモンドに移した。一方、ケンタッキー州やデラウェア州など奴隷制度を有しながらも連邦にとどまった境界諸州を含め、連邦(いわゆる北部)は23州となった。

開戦以降しばらくの間、戦闘は小競り合いに終始したが、その要因は双方が軍隊の編成や訓練に時間を要したためである。開戦前、アメリカが常備していた正規軍は1万6千人あまりで、その多くが西部フロンティア地域に配置されていた。このため、リンカーンが募集した志願兵は正規兵の4倍以上の大規模なものであり、訓練や兵站の整備が急務であった。この点は軍隊自体が存在しなかった南部も同様で、戦前より存在していた民兵の軍隊への組織化が図られた。一方、正規軍を指揮する将校の多くは、伝統的に武勇を重んじる南部出身者であった。このため、南部出身者の多くは南軍に加わったため、将官クラスの質や能力は南軍側が有利にあった。

当初、リンカーンら北部政府首脳のほとんどは南部の首都リッチモンドの攻略による短期決戦を目指した。これは双方の首都が100㎞と近接していたため、数に勝る北軍が敵首都を守る南軍を撃破すれば南部の反乱を短期間で収束できるとの世論に押されたからである。

1861年7月21日、北部の作戦に従いワシントンとリッチモンドの中間であるバージニア州のブルラン川付近に進出した北軍と、これを迎え撃つ南軍との間で第一次ブルランの戦いが起きた。南北戦争において最初の大規模な戦闘となったこの戦いは、双方とも訓練不足による混乱が発生した。しかし、士気の高い南軍に押される形で北軍側の戦線は徐々に崩壊し、ワシントンを目指して敗走するという屈辱的な敗北を喫した。もっとも勝者である南軍も北軍を追撃するほどの余力は残されておらず、戦闘は1日で終わった。しかし、この1日の戦闘は、それまでアメリカが経験した中で最も大きな犠牲を払う戦いとなった。


この戦いにより南北双方はこの戦争が容易ならざることを悟り、長期戦を覚悟した国家総動員の体制を整えていった。両軍は志願兵の募集を急いだが、人口に劣る南部は比較的早い段階から徴兵制を検討し、翌1862年にアメリカ史上初の徴兵制を実施した。これに対し北部は50万人近くの志願兵を集めたものの、それを訓練・指揮できる将官の能力に不足し、数の優位を生かせなかった。さらに、南部は自身の領土で守りに徹していれば良い点に比べ、北軍は南部を降伏させるしかないという点でリンカーンは戦略的に難しいかじ取りを迫られた。

このため北部は開戦時から長期戦を覚悟した戦略としてスコット将軍が具申していた南部全体の封鎖戦略、いわゆるアナコンダプランを本格化させた。これは南部の海岸全体の封鎖、ならびにミシシッピ河を支配下に置くことにより、ミシシッピ河以西の領域や海外との連絡を途絶させることにより南部を兵糧攻めにする作戦であった。これにより、南北戦争は主にワシントン・リッチモンドの両首都を巡る東部の戦いと、ミシシッピ河を巡る西部の戦いを中心に、全米各地で戦闘が続発した。

1862年は戦力を充実させた北軍による攻勢が開始された。西部戦線ではミシシッピ河をめぐる攻防が上流部より開始され、南軍の要塞が相次いで陥落。また、アナコンダプランに基づきメキシコ湾を封鎖し、4月にはミシシッピ河河口の大都市ニューオリンズを陥落させるなど北軍優位の戦況で推移した。

一方、東部戦線では3月に北軍マクレラン将軍指揮下のポトマック軍12万がバージニア半島に上陸し、南部首都リッチモンド攻略のための進軍を開始した。これに対し南軍は各所に分散している兵力をかき集め、徹底した防御に徹した。このときの戦闘で南軍側の司令官が負傷したため、途中よりリー将軍が指揮を引き継いだ。
リーは大兵力を有しながらも慎重なマクレランの裏をかき、積極的な機動と局所的な攻勢により北軍を翻弄した。リッチモンド目前の戦いでは、大きな犠牲を払いながらも北軍に勝利し、最終的にポトマック軍をバージニア半島から撤退させることに成功した。

1862年8月、第二次ブルランの戦いにおいてリーは北軍に対し再び大勝し、戦争の主導権は南軍に傾いた。リーはこの機を逃さず、境界州であるメリーランドを連邦から脱退させ南部側に引き込むこと、そして北部の豊かな農産物の確保を狙いに、東部では初めてとなる北部への大規模な侵攻を開始した。これに対し、首都ワシントンの陥落を危惧したリンカーンはマクレランのポトマック軍に対し、メリーランドに侵入したリーの南軍の迎撃を命じた。

9月、メリーランドの北西、アンティータム川においてリーの率いる北バージニア軍4万とマクレランのポトマック軍9万が激突した。戦いは引き分けに終わったが、双方の犠牲は大きくリーは南部への撤退を選ばざるを得なかった。一方でリンカーンは大軍勢を与えながらも南軍の撃滅に失敗したマクレランを解任した。しかし戦い自体は北部の戦略的な勝利となり、境界諸州が南部に取りこまれる恐れはなくなった。そこでリンカーンはかねてより準備していた奴隷解放予備宣言を発した。

明けて1863年1月、奴隷解放宣言が布告された。この宣言は境界諸州の奴隷制度を例外とするなど完全なものではなかったが、戦争の本質的な原因である奴隷制度を明確に否定した点で画期的であった。さらに戦争の目的として連邦の維持に加え、奴隷解放という大義が与えられたことにより、市民や兵士の考えに大きな変化をもたらした。

この宣言はまた、奴隷制度を廃止していた諸外国が南部連合国を承認する余地を断ち切ったことや、黒人が志願兵として北軍に入隊する道を開くなど、北部の戦争遂行に大きく寄与することになった。
このころの戦況は西部戦線では北軍優勢でミシシッピ河の支配地域を拡大していたが、東部戦線では1862年12月のフレデリックスバーグにおいて北軍がリーの南軍に対して大敗するなど、北部にとって予断を許さない状況であった。

一方アンティータムでは勝利できなかったものの、寡兵ながらも精強な北バージニア軍は連戦連勝であり、南部の士気は高かった。しかし南部は北部の海上封鎖が強化されたことにより綿花の輸出や武器輸入が困難になり、物資不足が慢性化しつつあった。リーは東部戦場における勝利に酔いしれる南部政府とは対照的に、南部の退潮を憂慮し、戦場での勝利による戦局の打開を目指した。

1863年は春の到来とともに戦力を充実させた北軍による攻勢が開始された。西部戦線ではミシシッピ河における南部の重要拠点であるヴィックスバーグの攻略作戦を開始し、5月には北軍がヴィックスバーグ全体を包囲下においた。またミシシッピ河のもう一つの要衝であるポートハドソンも北軍が包囲し、南軍の守備隊は孤立した。


4月、東部戦線でもポトマック軍司令フッカーによる北軍の攻勢が開始された。これに対応を迫られたリーは7万の北軍に対して4万の自軍を2つに分割、大半の戦力を預けられたジャクソンの部隊がチャンセラーズビルに野営する北軍を急襲し、これを撤退させることに成功した。ただ、この戦いでリーは最も優秀な副官であるジャクソンを味方の誤射により失い、その後の作戦遂行に大きな支障をきたすこととなった。

第3章 リーのペンシルヴェニア侵攻

南北戦争における南軍の基本戦略は北部の侵攻から南部を守り抜くことであった。しかし北部のアナコンダ戦略による影響によりインフレが進行し、1863年春には首都リッチモンドで食料暴動が発生するなど南部社会には不穏な空気が流れていた。
リーの腹心、ジャクソンは「我々は長い戦争に耐えられない。戦争が長引けば南部は疲弊するだろう。我々に残された望みはただ一つ、あらゆる地点で北軍に猛烈な圧力をかけることだ」とリーの考えを代弁するような言葉を残している。だからこそリーは1862年以来多くの戦いで積極的な攻撃により北軍を翻弄し、チャンセラーズビルの戦いでも自軍の倍に達する北軍を打ち破ってきた。
この勝利に自信を得たリーは前年の北部侵攻以来最大のチャンスが到来したと考え、南部連合政府に対し二度目の北部侵攻を提案し、これを認められた。リーはこの侵攻でボルチモアやフィラデルフィアなど東部の大都市を脅かすことにより、北部の世論を講和へ向かわせることを狙った。また、北部の収穫物を確保することや、北軍を東部に引き付けることにより西部戦線の状況の好転も目指した。しかし、この侵攻の直前に自身の片腕たるジャクソンを失っており、それが作戦遂行上の懸念事項であった。

一方北軍のフッカーはチャンセラーズビルの戦いにおいて完敗し、リンカーンからの信頼を失っていた。意気消沈のポトマック軍はラパハノック川の北への撤退を余儀なくされ、前年末の激戦地であるフレデリックスバーグで川を挟んで南軍とにらみ合う形となった。ポトマック軍はリーに敗退した痛手からの回復には程遠く、数の上ではリーを上回っていたものの緩慢な動きに終始した。これを好機と見たリーの北バージニア軍72000は6月3日、フレデリックバーグを出発し、北部への侵攻を開始した。
リーは自身の北バージニア軍を3つの軍団と騎兵隊に再編し、3つの軍団はブルーリッジ山脈に沿うシェナンドー渓谷を経由してメリーランドとペンシルヴェニアへと北上し、スチュワート将軍が率いる騎兵隊には偵察とポトマック軍をかく乱する任務が与えられた。シェナンドー渓谷を辿るルートはブルーリッジ山脈より東の北軍から自軍の動きを隠すことができるうえ、農業地帯を経由するため食料確保の上でも有利であった。一方、スチュアートの騎兵隊はブランディ・ステーションにおいて北軍騎兵隊と戦闘となったが、その排除に成功した。

このときラパハノック川の北側にいたフッカーは、南軍騎兵の妨害もありリーの正確な動きを把握できなかった。しかし、リーがフレデリックスバーグから消えたということは、リッチモンドまでの間にそれを阻む軍隊が存在しないということでもある。これを好機と見たフッカーは、リンカーンに対してフレデリックスバーグとリッチモンドの攻略を具申した。しかし、ワシントンの防衛を憂慮するリンカーンはこの提案を却下し、リーの追跡を命じた。6月13日、フッカーはフレデリックスバーグを進発し、リーが存在すると思われる地点とワシントンとの中間点へと自軍を移動させながら、リーの追跡を開始した。

このころリーと旗下の各軍団はシェナンドー渓谷に沿って北上を続け、シェナンドー渓谷の都市ウィンチェスターで北軍の守備隊を打ち破り物資を確保した。また、スチュアートの騎兵隊は北軍騎兵の動きを妨害し、北バージニア軍の存在を覆い隠すことに成功した。もっとも、スチュアートはリーの本隊と遠く離れたメリーランド各地を襲撃したため、リーとの連絡は途絶えがちであった。スチュアートの行動はフッカーを引き付ける効果はあったが、一方でリーは騎兵隊による偵察情報を十分に活用できないまま北進することとなった。

6月下旬、リーの命令を受けた北バージニア軍第2軍団の先鋒はメリーランドを抜けペンシルヴェニアに達した。この時点でフッカーのポトマック軍は遥か南に位置しており、ペンシルヴェニアを守る戦力は州知事が招集した民兵など僅かであった。このため、6月26日~28日にかけペンシルヴェニア南部の都市が次々と南軍の襲撃を受け、小麦やベーコンなどの食糧を奪われるなど甚大な被害を被った。その後、第2軍団はペンシルヴェニアの州都ハリスバーグ近郊に接近したが、知事がかき集めた12000の民兵らによりそれ以上の北上を阻まれた。

このような非常事態の中、リッチモンド攻撃という自らの主張が受け入れられずリンカーンとの溝が深まっていたフッカーはポトマック軍司令を解任され、6月28日、フッカーの後任として第5軍団を指揮するジョージ・ミードが任命された。

同日、ブリーリッジ山脈を超えていたリーは、バージニア州のどこかにいると信じていたポトマック軍が自軍と40㎞しか離れていない地域に進出してきたことを知り、作戦計画を変更した。リーはペンシルヴェニアの各地に散っている自軍を急遽呼び寄せ、来るべき北軍との衝突に備えて守りに有利なサウス・マウンテンの東側への集結を命じた。
一方、ポトマック軍の第1騎兵師団を率いるビュフォード准将は住民らの情報により、有力な南軍部隊が存在していると思われるキャッシュタウン方面を偵察するため、その東に位置する町、ゲティスバーグに部隊を進出させた。

6月30日、靴の不足に悩んでいた南軍第3軍団を率いるA・P・ヒル将軍旗下の小部隊がゲティスバーグの町に靴を調達するため進出したとき、双方は不意に接触した。この時南軍部隊はいったん退いたものの、ゲティスバーグには北軍の小規模な騎兵隊しか存在しないと信じたヒルは翌朝の威力偵察を決定した。

第4章 ゲティスバーグの戦い

1日目(1863年7月1日)

7月1日未明、南軍が集結しつつあったキャッシュタウンとゲティスバーグの町を結ぶチェンバーズバーグ街道において両軍による戦闘が開始された。ヒルは前日得た情報をもとに2個旅団もの歩兵を投入し、北軍の騎兵隊を一蹴しようと考えた。しかし、町の近郊で下馬し待ち構えていたビュフォードの騎兵隊は、当時最新鋭の7連発スペンサーカービン銃を装備しており、南軍の歩兵隊に対し善戦した。しかし圧倒的な兵力差により、北軍は徐々に市街地と目と鼻の先のマクファーソン・リッジに押し込まれた。

この間に両軍は援軍を要請し、10時頃にはレイノルズ将軍が率いる北軍第1軍団の歩兵隊がマクファーソン・リッジでの戦闘に加わったが、到着後まもなくレイノルズ自身が戦死し、指揮に乱れが生じた。

しかし、この後ハワードの北軍第11軍団が増援として到着し、市街地の北部の守りについたことにより、北軍はゲティスバーグの市街を取り巻くように布陣することに成功した。このころ市街の公共施設には負傷者が続々と運び込まれ、市民は看護にあたった。また、激しさを増す南軍の砲撃に対して、北軍の将校が市街地を馬で駆け抜けながら市民に地下室への避難を叫んでいた、という記録も残されている。

一連の戦闘はゲティスバーグ近郊にいち早く兵力を集中させた南軍が優勢に進め、午後にはゲティスバーグの北に位置するハリスバーグの攻略から反転してきた南軍イーウェル将軍の第2軍団が町の北部に到着し、町の西にも南軍の増援が来援した。特に第2軍団は旧ストンウォール・ジャクソン旗下の師団を含む最強の部隊であり、これに対峙した北軍第11軍団を士気や経験で大きく凌駕した。さらにリー将軍も戦場に到着し、南軍全体の指揮を執った。劣勢に立たされた北軍は町の南部、セメタリー・ヒルの丘に後退することを決した。

午後4時ごろ、町の西部と北部からの圧力に耐えきれなくなった北軍の戦線は徐々に崩壊し、ゲティスバーグの市街地はセメタリー・ヒルへ退却する部隊と、潰走した部隊が入り交じり大混乱となった。しかし北軍は後衛による防衛戦闘により大きな犠牲を払いながらも、セメタリー・ヒルであらたな戦線を構築することに成功した。ただ、このとき集結できた北軍は7000名程度であり、当初の戦力から半減していた。一方、リーは第2軍団のイーウェルに対しセメタリー・ヒルへの攻撃を命じたが、その命令は「可能であれば」という消極的なものであった。このため、自らの部隊も大きな損害を被っていたイーウェルは北軍を攻撃せず、1日目の戦いは終了した。

2日目(1863年7月2日)

前日深夜にゲティスバーグに到着したミードは、前日の戦いにおいて自軍の2個軍団が潰走するという悲惨な状態にはあるものの、ミードが急派したハンコック将軍の指揮によりリーの攻撃から辛うじて持ちこたえたことを確認した。この間もリーとミードは周囲の部隊を呼び寄せ、両軍の部隊はゲティスバーグには続々到着していた。もともとゲティスバーグは12本の整備された街道が町の中心に向けて放射状に交わる交通の結節点であったため、その特徴から四方八方からゲティスバーグに向かう部隊の集結を容易にしていた。

ミードはセメタリー・ヒルを中心に釣り針を逆にした形で戦線を構築し、その南端はリトル・ラウンド・トップという小山までの約4㎞に達していた。一方、リーは北軍の戦線を北と東西から取り巻く形で南軍を布陣させた。リーは各軍団長と作戦を討議し、ジャクソンに次ぐ腹心の部下である第1軍団長ロングストリート将軍に対し北軍左翼への攻撃を命じ、同時に第2軍団のイーウェルに対しても東部からの攻撃を命じた。しかし戦闘の準備は遅滞し、攻撃は午後にずれ込んだ。

午後4時を過ぎ、ロングストリートら南軍の攻撃が始まると、これにつられる形で戦線中央を守っていた北軍第3軍団のシクルズ将軍が独断で兵を前進させ、北軍の戦線に隙間が生じた。これを好機と見たロングストリートは突出したシクルズの部隊を粉砕し、その勢いで北軍戦線の最南端、リトル・ラウンド・トップに向かった。ロングストリートは、北軍最南端の小山を占拠して北軍戦線を側面から砲撃することにより、北軍の崩壊を狙った。

一方この地を守るため急派されたメイン州の連隊は北軍戦線の最左翼であり、隣には友軍がいなかった。このため連隊長チェンバレン大佐は手持ちの部隊をできるだけ長く伸ばし、戦線に間隙を作らない状態で南軍の猛攻を受け止めた。
チェンバレンの連隊は小山の上に陣を敷いていたため地の利はあったが、南軍の度重なる攻撃で大きな損害を被り、弾薬も尽きかけた。そこでチェンバレンは一か八かの作戦として銃剣突撃を命令、部隊は一斉に陣地を出て小山を駆け降りた。このころ南軍側の攻略部隊も疲労の極みにあったため、銃剣突撃に驚いた南軍兵は次々に降伏。南軍はリトル・ラウンド・トップから一掃され、北軍の左翼に対する攻撃は失敗した。また、ロングストリートの攻撃に呼応する形で町の東部から攻撃を開始したイーウェルの部隊も北軍の第1軍団に撃撃され、ごくわずかしか前進するができなかった。こうしてリーの攻勢による2日目の戦闘は20時ころに終了した。

3日目(1863年7月3日)

2日目の戦闘終了後、南軍には到着が遅れていたピケット将軍の歩兵師団が来援した。リーは新たな戦力をもとに更なる攻勢を続ければ北軍線を突き崩すことができると考えた。作戦計画は前日同様、北軍の右翼および左翼に攻撃を実施し、戦線の中央部に隙が生じたタイミングで中央への攻撃を敢行。最終的には右翼と左翼からの挟撃によりポトマック軍をせん滅する作戦を立案したが、ロングストリートは無謀な作戦としてこれに反対した。しかし中央突破に確信を持つリーはロングストリートに改めて命令を下し、今度は拒否しなかった。
 7月3日未明、町の東部に布陣するイーウェルは、前日同様北軍の右翼に攻撃を開始しようとしたが、気勢を制する形で北軍による奇襲攻撃が開始された。この戦闘は正午まで続いたが、双方とも膠着状態に陥った。これによりリーが企図した北軍右翼への攻撃は不成功に終わった。しかし、リーは北軍の中央部が他の戦線よりも手薄であるという兆候を見いだし、当初の計画である北軍戦線の中央突破を決意した。

リーは北軍中央部への攻撃に際し、ロングストリート旗下のピケット師団ら15500の兵を割り当て、歩兵の横隊による攻撃を企図した。しかし戦線中央部は畑が広がる平地であり、北軍が守る戦線までの1.6㎞を徒歩により進軍することを強いられることから、激しい攻撃が予想された。そこでロングストリートは150門もの大砲を集中的に配備し、北軍戦線に対し十分な準備砲撃を実施することとした。

13時、南軍の砲兵による砲撃が始まり、これに対抗する形で北軍陣地からも80門の大砲による反撃が開始された。この砲兵戦は南軍の弾薬が不足するまでの2時間にわたり続き、北軍側の反撃にも衰えが見え始めた。これを好機と見たピケットは部隊の前進を命じた。

15:10、南軍側が戦線を敷いていたセミナリー・リッジの木立から三列に横隊を組んだ灰色の歩兵15500が軍旗をなびかせながら一斉に前進を開始した。まるでナポレオン戦争のような勇壮な横隊が畑を行進する姿は北軍陣地からも遠望され、北軍陣地に半分まで達しないころに弾薬を温存した北軍砲兵による砲撃が開始された。


それに続き、北軍歩兵のライフルによる斉射が開始されたが、南軍兵の前進は止まらなかった。しかし、南軍兵の横隊は次々に引き裂かれ、セメタリー・リッジの北軍防衛線を突破した集団はわずか150名足らずであった。それらの兵士も次々と撃ち倒され、16:00ごろには突撃は完全に失敗、突撃部隊は7000もの死傷者を戦場に残しリーの元まで退却した。リーはこの攻撃を自分の責任であると恥じ、ゲティスバーグでの戦闘を中止した。

ゲティスバーグの戦い その後

7月4日、疲れ切った両軍が対峙する中、リーは故郷バージニアに向けて静かに退却を開始した。この戦いおいてリーは総兵力72000のうち23000もの死傷者を被り、ミードも総兵力93000のうち20000もの死傷者を被った。このためミードはリーとその軍隊の撤退に際し、ミードは反撃を警戒しながら慎重にこれを追跡した。しかしゲティスバーグの戦いではほとんど寄与できなかったスチュアートの騎兵隊による防御戦闘などによりこれを捕捉することができず、7月14日にポトマック川を渡河しバージニアへの帰還を許してしまった。こうしてリーの二度目の北部侵攻はゲティスバーグの戦いによる決定的な敗北により幕を閉じた。

折しもゲティスバーグの3日間の戦闘が終了した翌日、西部戦線において北軍の包囲下にあったヴィックスバーグが降伏した。ゲティスバーグとヴィックスバーグの戦いにおける北軍の勝利は南北戦争の転換点となり、以後南北戦争の流れは完全に北部主導へと転じた。

しかし、リーに率いられた北バージニア軍の士気は衰えず、この後も1年9ヶ月余りに渡り北軍との死闘を繰り広げた。そして1865年4月、南部連合国首都リッチモンドが陥落し、万策尽きたリーはバージニア州アポマトックスでグラント将軍に降伏を申し出た。これを契機に各地の南軍は順次北軍に降伏し、足掛け4年余りに渡った南北戦争は終結した。

人物の紹介

ジョージ・ゴードン・ミード(1815~72)
ポトマック軍総司令官(少将)

南北戦争勃発時、連邦正規軍の有能な将官は南部出身者が多く、彼らは南軍に参加した。このため、北部は兵力に勝るにも拘わらず連敗し、将官の能力不足を思い知らされた。そこでリンカーンはポトマック軍の司令官の首を何度も替えたものの、いずれの将軍もうぬぼれが強いが能力は二流以下で、南軍のリーにしてやられる展開が続いた。こうした中で脚光を浴びたのがミードであった。

陸軍士官学校出身のミードは米墨戦争に従軍し、南北戦争では義勇兵准将として旅団を任されました。ミードの指揮は堅実で粘り強さに定評があり、1862年には東部戦線における主要戦闘に参加、のち義勇軍少将としてポトマック軍の第5軍団長に就任。1863年のチャンセラーズビルの戦いでは、その指揮が高く評価された。

ゲティスバーグの戦いの3日前、ミードはポトマック軍の総司令官に任命された。着任早々の彼は戦いにおいて防御戦術に徹し、部隊の迅速な移動による戦力の集中に成功した。その後南部に撤退するリーの追撃戦には失敗したものの、終戦までポトマック軍の司令官職にとどまった。

南軍
ロバート・エドワード・リー(1807~70)
北バージニア軍総司令官(大将)

南北戦争の将帥の中で将兵から最大の敬愛を集めた人物は、おそらくリーに違いない。彼の父はアメリカ独立戦争の英雄で、妻は国父ワシントンに連なる名家の出身であった。しかしリーは傲慢な南部支配階級出身者とは異なり、寡黙で温厚な人柄であった。

リーの軍人としての才覚は米墨戦争で発揮され、のちには陸軍士官学校の校長も務めた。リーは職業軍人に徹し政治に口を出さなかったことから連邦政府からの信頼も厚く、南北戦争勃発時にはリンカーン大統領から北軍司令官への就任を打診された。しかしリーは故郷であるバージニア州が連邦を離脱すると郷土を守るため、連邦軍を辞して南軍に参加。南部連合国の首都リッチモンドを守る北バージニア軍の司令官として数々の勝利を収めた。

しかしリーは国力に劣る南部はいずれ危機的状況に陥ると考え、北軍に対し大勝利を収めることにより北部との講和を目指すため、北部侵攻作戦を企てた。ゲティスバーグの大敗はリーを消沈させたが軍からの辞職は認められず、アポマトックスでの降伏まで北バージニア軍の指揮を続けた。

ゲティスバーグ古戦場の概要

1861年から1865年にかけ国が南北に分かれて戦った南北戦争は、アメリカ史上最大の悲劇であり、現在のアメリカを形作った戦争である。その中でも戦争の転換点となった激戦が繰り広げられた地がワシントンより車で1時間半ほどの町、ゲティスバーグである。

ゲティスバーグはペンシルヴェニア州南部に位置するアダムズ郡の郡庁所在地で、この地方の交通の結節点として発展した。町の中心部からは幾筋もの道路が放射状に延び、南北戦争の当時は人口2400人・商店や銀行など450の建物を有する地方の中核都市であった。この地理上の特性から戦いが生じ、3日間にわたって南北双方合計16万人の兵士が戦い、5万人以上の死傷者を生んだ激戦地となった。

戦いの後、リンカーン大統領がゲティスバーグを訪れ、国立兵士墓地の除幕式の演説において自由の誕生と国民主権を述べた歴史に残る演説を行ったことにより、世界的に有名である。

その後、ゲティスバーグには慰霊や祈念の目的として、次いで戦跡巡りを目的とした訪問者が増加し、19世紀末には宿泊や飲食を提供する歓楽街が形成された。このころ、戦跡の保存を目的とした国立軍事公園が置かれ、戦いから50周年が経過した1913年には南北双方の生存者による和解のイベントや、円筒形絵画(サイクロラマ)が公開されるなど、古戦場と観光産業が共存する環境が整備された。

現在の人口は7600人程度であるが、郡全体の年間観光客数は370万人以上、観光消費額は7億ドル近いと見積もられ、古戦場からなる国立軍事公園内のみでも年間100万人近くが訪れる。ゲティスバーグの観光における主なターゲットは古戦場めぐりを目的とした歴史に興味がある層や教育旅行であるが、アダムズ郡全体では自然を生かしたエコツーリズムやワインツーリズムも盛んである。

歴史と慰霊と観光の共存

ゲティスバーグ国立軍事公園は古戦場の保存と歴史教育、隣接する国立墓地が慰霊を担っている。公園内にはヴィジターセンターをはじめとした施設が整備され、各所には当時の部隊を顕彰するモニュメントや、部隊の配置を示すマーカーが1300ヶ所以上存在し、観光客は専用のアプリを片手に小説や映画で描かれた将兵たちの足跡を辿ることができる。一方、観光客に対する宿泊飲食サービス、物販の提供などは公園外に位置する民間事業者の役割となっており、公園とは厳密に区分されている。一方で、ゲティスバーグが大切にしてきた歴史の保存や戦没者の慰霊は観光的な要素とも重なっており、いずれの要素も兼ね備えているイベントも存在する。

たとえば、毎年11月19日のゲティスバーグ演説に合わせ開催されるリメンバランスデー(戦没者追悼記念日)は1868年以来150年以上続く伝統的な行事であるが、20世紀中期からは市街地でのパレードも開催されるようになった。

このパレードは南北戦争での戦死者追悼のため参加者全員が当時の軍服を再現した衣装を身にまとい、参加人数は最大時5000人、戦闘から最後まで1時間もかかる全米最大の歴史再現パレードでもある。全米から集まる参加者は自分たちが演じる部隊のモニュメントの前で哀悼の意を捧げ、戦死者を追悼する赤いポピーの花を供えたのち、市街地においてパレードを行う。

さらに市街地には歴史愛好者に対し様々なサービスを提供する店舗が存在する。たとえば、19世紀の帽子を当時の技術と素材に基づいて再現した商品群によりマニアや映画用小道具の需要を集める帽子店や、再現衣装を着用できる写真館、戦い当時の建物(148棟が現存)を保存・修復した民宿などが多数存在する。このようにゲティスバーグは戦いの歴史や戦跡を活用した観光や産業も盛んである。