19世紀中ごろ、アメリカの北部諸州と南部諸州とは奴隷制度の是非を巡って対立を深めていた。この対立は、1860年の大統領選挙をきっかけに南部諸州が連邦から離脱したことで決定的となり、翌1861年4月、連邦からの離脱を目指す南部と、これを阻止したい北部との間で南北戦争が勃発した。戦争は当初、短期間で終わると思われたが、次第に長期戦の様相を呈してきた。戦争当初、人口や工業力に勝る北部が優勢と思われたが、北バージニア軍を率いるリー将軍など優れた将を得た南部は善戦した。しかし1863年に入るとミシシッピ河を中心とする西部戦線で南軍は劣勢に追い込まれ、東部戦線においても物量に勝る北軍による一大攻勢が開始された。
こうした状況の中、リーは戦局の打開を目指すための北部侵攻作戦を立案した。1863年6月、リー将軍が率いる北バージニア軍はペンシルヴェニア南部に侵攻、南軍の小部隊が靴を調達するために進出したゲティスバーグで南北両軍は接触し戦闘が始まった。
1863年7月1日に始まった戦闘は当初、町の西から東へと進撃する南軍の大部隊に対し、これを迎撃する北軍の騎兵隊との間で戦端が開かれた。この戦闘の過程で双方とも援軍を呼び寄せたが、いち早く部隊を集結することができた南軍が優勢となった。夕方には練度に勝る南軍の攻撃により北軍は町の南に位置するセメタリー・ヒルの丘への後退を余儀なくされた。しかし、新たに防衛線を築くことに成功した北軍はミード将軍を迎え、セメタリー・ヒルを中心とした釣り針を逆にした形の戦線を構築することに成功した。
一方、南軍は北軍の戦線を北と東西から取り巻く形で布陣した。リーは各軍団長と作戦を討議し、第1軍団長ロングストリート将軍に対し北軍左翼への攻撃を命じ、同時に第2軍団のイーウェルに対しても東部からの攻撃を命じた。